100万回


 半年ほど前から毎日自分に対してお灸を据えている。
 目的があっての行動だが、体調には明らかな好転が自覚できる。鍼灸治療を生業としているわたしにとっては当たり前のことなのだけれど、やはりお灸はよく効くなあと思う。

 もぐさを米粒の半分くらいの大きさに捻り、ツボに置いてお線香をもぐさの先端に近付けると火が灯る。ファーっともぐさが燃えていくと、ほんのりとした温かさを感じたりピリッとした熱さを感じたりする。右手の親指と人差し指をもぐさの周囲にかざすことでもぐさ周囲の酸素量を調整して、燃え方を加減することでからだに伝わる熱量を調整する。これがお灸を1壮据える一連の動作となる。

 わたしは毎日自分に対して最低200壮のお灸を据えている。単純計算で200壮×180日=36,000壮となり、多い日は300壮、400壮と据えていたので、おそらくこの半年の間に40,000壮以上は自分に対してお灸を据えているだろうと思う。
 普段の治療以外にそれだけお灸を毎日据えていたら、わたしのもぐさを捻る技術は向上してスピードもアップしていった。自分の技術力に満足することはないけれど、まだまだ伸びしろがあると実感できていることはお灸の効果と共に喜ばしいことだと思っている。

 わたしの持論として、たいていのことは10万回おこなえばそれなりに出来るようになり、100万回おこなえば自分の思うように扱えるようになって身に付くものだ、と考えている。


 鍼灸師になるには、三年制の専門学校か四年制大学の鍼灸学部に通うことで、もしくは盲学校の生徒が、国家試験受験資格を得て試験に合格し「はり師」「きゅう師」の国家資格を取得することが必須となる。
 三年間で考えれば、毎日お灸を100壮捻る、毎日鍼を100本刺す、これを365日×3年間繰り返せば、
 100×365×3=109,500
 10万回を超えるから、国家資格を取得する頃にはそれなりの技術が身に付いてるのではないか、とわたしは想像している。

 ただ、わたしが専門学校の学生だった頃でいうと、鍼に関しては多くの人が毎日のように練習していたけれど、もぐさを捻ることは授業中と実技試験の前だけという人が多かったように思う。だから、もぐさを捻ることが苦手だという同級生はかなり多かった。
 わたしも、もぐさを捻るより鍼を刺す練習の方が回数も時間も多かったけれど、もぐさを捻ることに関しては好きだったのでよく練習していた方だと思う。
 器用さだったりセンスがあったり個人差はあるものだけれど、練習をすればするほど技術が向上していくことは間違いない。専門学校に入学して間もない頃、器用な人やセンスのある人は鍼を刺したりもぐさを捻ることはすぐにできるようになり、同級生から羨望のまなざしを受けていたけれど、『うさぎとかめ』のお話のように地道に練習を続けた人は確実に上手くなっていった。ただ、器用な人やセンスのある人もそれなりに練習するので、三年の間に立場が逆転することはなかったように思う。
 学生の間は、国家資格を取得し鍼灸治療をおこなうために一定以上の知識と技術を身に付けることが目的なので、他の人と比較する必要性はあまりない。鍼灸治療の場合、技術も大事だけれど知識やコミュニケーションなども大事で、よっぽどずば抜けた技術がない限り、知識も無く人間性に問題があれば誰も施術を受けたいと思わないだろう。


 わたしがあざみ野に自分の治療院を開業した当初は、広告や宣伝は全くしていなかった。なんなら看板さえも出していなかった。広告や宣伝に関しては、これまでも全くしたことはない。さすがに看板に関しては、予約をしてくれた方々から「どこにあるのか分からない」「ビルの中に入るのに勇気がいる」といった声があって、開業して数か月後に製作することになった。
 開業したばかりの頃、来院者は検索してホームページを見た人のみで、予約はほとんど入らなかった。時間はたっぷりあったので、わたしは本を読んで知識を蓄えたり、もぐさを捻る練習をしていた。
 例えば、木の板にしるしを付けて、その上に捻ったもぐさを置いてお線香で火を灯す。もぐさの大きさや捻り方でどのくらい熱の伝わり方や感じ方が違うのか、燃えたもぐさを取り払って木の板を確認するとよく分かる。
 黒いフェルトの上に捻ったもぐさをどんどん並べていく。つるつるしたところにもぐさを立てるのは難しいけれど、フェルトの繊維の上だともぐさを立てやすい。黒を背景にするともぐさの形が分かりやすい。二つの理由から黒いフェルトを使っていて、一列に10壮並べて10列作ると100壮になり、それを時間がある時におこなっていた。

 ゆかり堂にお越しの方の中には、自宅でお灸をしている、したことがあるという方がたまにいらっしゃるけれど、皆さん『せんねん灸』などの火をつけて置くだけという簡単なものを使っている。もぐさを捻ってお灸を据えたことがあるという方は、ゆかり堂の来院者の中には一人もいなかった。
 過去には、お灸教室をしてみようか、と思ったこともあるけれど、もぐさを捻るお灸をやってみたい、教えてほしいとの声があって検討したり始めたりするものであって、誰にも求められていないのに自ら教室や講座を始めますと言うのも変な話だと思って開催していない。

『もぐさを捻ってお灸を据える』という手間も時間もかかることを好んで望む人がいるのだろうか? 皆さん忙しい。もっと手軽に、もっと簡単に、と要望する人が多いからこそ、SNSなどで「これだけすればOK」などの情報が溢れかえっているのだろうと思う。ツボ押しくらいで改善したら、鍼灸師はいらないし医師も必要なくなるだろうにと思う。
 知識や情報だけでなく技術は必要だし、技術を習得するにはそれなりの手間と時間がかかる。症状に合わせたツボを選択し、的確にツボを探り当てることができ、どのような状態を目指すのか目的を持って適切な熱刺激を加える。適切な熱刺激を加えるために、もぐさの大きさ・もぐさのひねり方・もぐさの燃え方を調整する。これらができれば最大限の効果を引き出すことができるのだけれど、自分で手間も時間もかけてそのような技術を身に付けるくらいなら鍼灸師に施術をしてもらった方がいい、と考える人が多いかもしれない。


 もし、自分でもぐさを捻ってお灸をしたいという場合、高品質のもぐさを使用したほうが良い。高品質というのは、夾雑物が少ないものという意味だけれど、分かりやすく言えば不純物が少ないもの。夾雑物が少なければ少ないほど、高品質とされている。
 使用目的によって使い分けるものなので、低品質のものが駄目ということではない。夾雑物が多いほど燃焼温度は上昇するので、もぐさを捻ってお灸を据える場合は夾雑物が少ない高品質のものの方が適している。

 もぐさは品質によって価格が大きく変わる。わたしが治療で使用しているのは国産もぐさの高品質のもので10g3,500円くらいだったと思う。それを自分にお灸を据えるために使うのは勿体ないので、10g1,800円くらいのものを使用している。
 10gというとすごく少なく感じるかもしれないけれど、おそらく初心者が毎日100壮お灸を据えることを1年続けても使い切れないくらいの量だと思う。もぐさの大きさにもよるけれど、米粒の半分くらいの大きさであれば、1年以内に使い切ることはほとんどないだろう。
 初心者は技術的に捻ったもぐさが大きくなりやすい。もぐさが大きいほうがお線香で火を灯しやすい。ただ、もぐさが大きくなると熱量も大きくなるので熱くなる。だから、技術が上達していくと小さくて熱くないお灸を据えることができるようになり、もぐさを10g使い切るには時間もかかるようになっていく。
 毎日お灸を据えて、1年間で1,800円前後しか掛からないのであればコスパはすごく良い。他にライターとお線香は必要になってしまうけれど。
 ただ、手間と時間と技術の習得は必要なので、もぐさを捻ってお灸を据えようという人はほとんどいないかもしれない。


 お灸について長々と書いてしまったけれど、本題は『100万回』だ。
 たいていのことは10万回おこなえばそれなりに出来るようになり、100万回おこなえば自分の思うように扱えるようになって身に付くもの、だとわたしは思っている。
 これまでわたしが刺してきた鍼の本数や据えてきたお灸の壮数は数えていないけれど、おそらくどちらも100万回は超えていると思う。まだまだ技術を向上させていきたいし、一生涯では何回になるのだろう? 数えるつもりは無いけれど。

〈了〉



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2026年04月01日